神社で奉仕してみて変わった祝詞への意識・仲執り持ちの意識を持ちたい
神主が神様の前で奏上する祝詞。様々な祈願の内容があり、神様へ願意を伝えるためのものです。
先日、この祝詞に対する意識について話の中で思うところがあったので今回は祝詞に対する意識について書いてみたいと思います。
学校での授業において・・・
神主になるには神職階位というものを取得する必要があります。取得するには養成機関に入ったり大学で学んだりと方法はいろいろですが、自分の場合は大学で階位を取得しました。
大学では神道に関する様々な講義や実習があるのですが、その中に祝詞の講義もありました。祝詞の構成について学んだり、祝詞を書いたりといった内容でしたが、ある日の授業で先生が受講者に対して「祝詞は誰に対して奏上するものですか?」という質問を投げかけました。
このとき自分は「祝詞って神様を称え、感謝や願いを神様に伝えるわけだから当然神様に奏上するもんだろ何でそんな質問をするんだろう」なんて思っていて、先生の意図していることがよくわかりませんでした。
今思うと実務に関する感覚が欠けていたのかも・・・大学って作法や学術的なことは学びますが、実際の神社での実務に関する感覚はなかなか養えない部分があるように思います。
実際に奉職して変わった祝詞に対する意識
その後、大学を卒業し神社に奉職(ほうしょく・要は就職することなんだけど神社は会社と違うのでこう言う)したことで祝詞に対する意識が変わりました。
祝詞を奏上する際の注意点として上司や先輩たちから言われたのは、「祈願をする人の名前と住所は絶対に間違わないように」でした。
確かに祈願をする側からすると自分の名前や住所が間違って奏上されたら「きちんと願意は神様へ届いているのだろうか」と心配になってしまいますよね。
神社の例祭や元旦のお祭りでは個人の名前を読み上げませんが、数で言えばこうしたお祭りよりも個人の御祈願が圧倒的多数、こうした日々の神社での業務の中で祝詞への意識が変わっていきました。
神社の実務の中でやっと「祝詞は誰に対して奏上するものですか?」という質問の意味がわかってきたのです。
神主は神様と願主の間でバランスをとらねばならない
そんなわけで祝詞は神様に対して奏上するものというのは当然なのですが、それと同時に祈願をする人にも聞いてもらい「ちゃんと祈願してるんだ」と実感してもらうこと、安心してもらうことにも意義があるということだと自分は考えるようになりました。
もちろん祈願をする人は祝詞を学んでいるわけではありませんから全ての意味が理解できるわけではありませんが断片的な意味を拾ったり、名前や住所を聞いて実感を持ってもらうことってけっこう大切な要素だと思います。
神主の存在意義を語る上で
仲執り持ち(なかとりもち)
という言葉がよく使われるのですが、神主は願い主と神様の仲を取り持つ存在なのです。
よって祝詞を奏上するときも「神様のこと願い主のこと、両方を意識しながら行う必要があるよなー」なんて、神社での実務を経験して思うのでした。
ちなみに神社に奉職すると日々の業務の多忙さ(自分が奉職したところは忙しくなかったけど)や業務上の関係(願い主の名前間違ったらクレーム来るし)でどうしても願い主のほうに意識がいってしまいがちな気がします。
神様、願い主の間でバランスを取り、どちらに対しても神主として真正な態度で祭り事を進められる人ってすごいなと思う次第です。
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